人間関係の悩みは今も昔もつきません。釈尊が生きるヒントを数千年前の昔に示されております。佛の教えの中で生きるヒントになるものを抜粋して参ります。良縁、悪縁ありますが、良縁を得る為の道しるべとなればと思います。合掌。
「何でも取ってゆく友、ことばだけの友、甘言を語る友、遊蕩の仲間、これら四つは敵であると賢者は知って、かれらを遠く避けよかし、あたかも恐ろしい道を避けるように」(『原始仏典第三巻長部経典III』春秋社、p.250)
『原始仏典第三巻長部経典III』(中村元監修、森祖道・浪花宣明編集、中村元・浪花宣明・岡田行弘・岡田真美子訳、春秋社)掲載の「シンガーラへの教え」(中村元訳)より(浪宏友ビジネス縁起観塾より引用)
(内容詳細)
1.友に似た敵
(1)友に似た敵
①経文
「次の四種は敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである。すなわち(1)何ものでも取って行く人、(2)ことばだけの人、(3)甘言を語る人、(4)遊蕩の仲間は敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである」(『原始仏典第三巻長部経典III』春秋社、p.248~249)
②友とは、本来は、「互いに助けあう者」であり、「志を同じくする仲間」です。ですから、お互いに安心して、親しく交流します。
③友に似た敵、この人は、いかにも親しそうに振る舞いますから「友」に似ています。しかしながら、自分本位の利益を得ることばかりを考えています。互いに助けあう間柄でもなく、志を同じくする仲間でもありません。この人に巻き込まれると、こちらの人生・生活・家族・仕事・社会的立場などが危うくなりかねません。こうしたことから、ブッダであるお釈迦様は「敵」と言ったのでしょう。
2.何ものでも取ってゆく人
(1)経文
「何ものでも取ってゆく人は、次の四つのしかたによって、敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである。かれは、(1)何でも〔品物を択ばず〕取って行く、(2)僅かの物を与えて多くの物を得ようと願う。(3)ただ恐怖のために義務をなす。(4)〔自分の〕利益のみを追求する。何ものでも取って行く人は、これらの四つのしかたによって、敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである」(『原始仏典第三巻長部経典III』春秋社、p.249)
(2)何ものでも取って行く人、この人は、親しそうに振る舞いながら、こちらの持ち物を当たり前のように持っていきます。代償を置いてゆくとしても役に立たないようなものばかりです。
(3)ただ恐怖のために義務をなすこの人は、上役や権力者から行動を強制されるなど恐ろしいことが起こったときだけ仕事をします。恐ろしいことが通り過ぎると、たちまち仕事をしなくなります。
3.ことばだけの人
(1)経文
「『ことばだけの人』は、次の四つのしかたによって、敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである。かれは、(1)過去のことに関して友情をよそおい、(2)未来のことに関して友情をよそおい、(3)無益なことを言って取りいり、(4)なすべきことが眼前に迫ると、都合が悪いということを示す。実に『ことばだけの人』は、これら四つのしかたによって、実は敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである」(『原始仏典第三巻長部経典III』春秋社、p.249)
(2)恩着せがましいあのときはこうしてやったと過去のことで恩に着せ、こういうときはこうしてやると未来のことで恩に着せ、現在はなんだかんだと金品などをせびり、いざというときには一目散に逃げていきます。
4.甘言を語る人
(1)経文「実に、『甘言を語る人』は、次の四つのしかたによって、敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである。かれは、(1)相手の悪事に同意し、(2)善事に同意しない。(3)その人の面前では賛美し、(4)その背後ではその人をそしる。『甘言を語る人』は、これら四つのしかたによって、実は敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである」(『原始仏典第三巻長部経典III』春秋社、p.249)
(2)甘言
①「悪事」とは、自分本位の利益を追求する行為でありましょう。「善事」とは、人さまのために貢献する行為でありましょう。自分の利益になる悪事には飛びつきますが、自己犠牲が伴う善事には見向きもしません。②目の前ではこちらにおべんちゃらを使って利益を得ようとしますが、裏では平気でこちらの悪口を言います。③言葉が巧みなので、こちらの心に隙があると、つい騙されてしまいます。
(3)舌先三寸舌先三寸とは、うわべだけのうまい言葉を語り、中身もなければまごころもないことを言います。「ことばだけの人」「甘言を語る人」は、まさしく、舌先三寸の人です。
5.遊蕩の仲間
(1)経文
「実に、遊蕩(ゆうとう)の仲間は、次の四つのしかたによって、敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである。かれは、(1)もろもろの酒類など怠惰の原因に耽(ふけ)るときの仲間である。(2)時ならぬのに街路をぶらつき廻るときの仲間である。(3)〔祭礼舞踏などの〕集会に入り込むときの仲間である。(4)賭博(とばく)など遊惰(ゆうだ)なことがらに耽るときの仲間である。これら四つのしかたによって、遊蕩の仲間は実は敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである」と。このように世尊は説かれたのである」(『原始仏典第三巻長部経典III』春秋社、p.249)
(2)遊蕩飲酒にふけり、夜更かしをし、仕事を忘れて遊びに明け暮れ、賭博に興じるような人は、金銭を浪費し、体力を消耗し、社会的信用を失い、人生を破壊してしまうことになりかねません。この人は、親しいふりをして、こちらをこのようなことに巻き込もうとします。
6.四種類の敵
(1)経文
「幸ある人、師(釈尊)はこのことを説き了(お)えてから、次のように説かれた。「何でも取ってゆく友、ことばだけの友、甘言を語る友、遊蕩の仲間これら四つは敵である、と賢者は知って、かれらを遠く避けよかし、あたかも恐ろしい道を避けるように」(『原始仏典第三巻長部経典III』春秋社、p.250)
(2)避ける
釈尊はシンガーラに、こうした人びとは「友に似た敵」だから、「危険な道を避けるように遠く避けなさい」と教えます。相手を怒らせたくない、相手に悪く思われたくない、相手に良く思われたい。そのような気持ちが湧いてきて、ご機嫌を取ったり、いやな事でも引き受けたり、間違っていると思いながらも行ったりしてしまうことがあります。儲け話などうまい話をされると、求める気持ちが起きて、耳を傾けることがあります。そうこうするうちに、相手に巻き込まれて、翻弄されてしまいます。このようなことにならないために、ブッダであるお釈迦様は「かれらを遠く避けよかし」と注意を促しているのだと思います。
(3)精進・忍辱(努力と柔和な心を保つ忍耐)
相手を怒らせようが、相手に悪く思われようが、相手から良く思われまいが、柔軟な姿勢で真理の道を歩み続けることが肝要です。甘い言葉は、貪欲の心で聞いてはいけません。どんな状況に陥っても、どんな仕打ちを受けても、真理の道を歩み続ける修行が、八正道における正精進であり、六波羅蜜における忍辱と精進です。