サイトアイコン 浄土宗西山禅林寺派 日輪山常満寺

観自在菩薩のお話

Avalokiteshvara(観自在菩薩)

日本でよく拝まれている佛様に、阿弥陀如来様(もと法蔵菩薩様)と観自在菩薩(観音様)がいらしゃいます。今回は観自在様のよいお話がありましたのでご紹介致します。

youtubeは英語ですが、見ていてもなんとなく分かりますし、以下に内容を、日本語訳しましたので、読んでからyoutubeを見るとより解することが出来ると思います。観自在菩薩様が慈悲の佛様と呼ばれるその所以が語られております。英語で慈悲は”compassion(共感)”とも訳されます。観自在菩薩様は原音でアバロキテシュバラ(観-自在)と言われますが、アバロキテシュバラ(観-自在)が、我々の知る”観音様”の十一の顔(実際は後二つ加え十三面となる場合が多い)と幾千の腕を持つ姿に至るのは、他者へのその共感と慈悲、に端を発します。”共感と慈悲”は現代の風潮である”〇〇ファースト”とは対極にあるものです。物語の中でも、”苦しむものがいるのに、自分のみが山中で修行にふけっていて良いものか?”と疑問に思われるアバロキテシュバラの姿が物語られており菩薩たらしめたものは”〇〇ファースト”でなく”共感と慈悲”であることが分かります。もしアバロキテシュバラが、共感も慈悲もなく、「自分に関係ないこと他人ごとだ」などと思われる方であるならば、ヒマラヤから下界を憂慮することなどなく、この世で、わたくし共を救っていただく方は存在致しませんでした。

現代日本では未だ、”〇〇ファースト”、が跋扈しているように思いますが、また ”共感と慈悲” が広がるでしょうか。

———————————————————————————

以下、👆youtubeの内容です。

「「一人の仏教徒がその美しさを表現しようと、菩薩の身体像を描いている。例えばこの菩薩はアバロキテシュバラとして知られている。

以下は、アバロキテシュバラ(観-自在)にまつわる、一つの物語。それは何世紀も、何世紀も前のことであると言われている。アバロキテシュバラはヒマラヤの洞窟で瞑想行に人生のほとんどを捧げる僧侶であった。アバロキテシュバラは瞑想行の末に、目覚めの境地にたどり着こうとしていた。彼はとてつもない喜びと幸福に満たされていた。

と、その瞬間、かすかな、かすかな音が、遠く、遠く、から聞こえてくることに気が付いた。彼が耳を傾けてみると、その音の悉くが、嘆き、叫び、すすり泣き、悲しんでいるものであった。彼が洞窟の下を覘き込むうちに、その、嘆き叫び、すすり泣きは、どんどんどんどん、大きくなっていった。彼には、何百万人ものあまりに多くの人々が、あまりに多くの形でくるしんでいる様が見えた。あるものは火事で焼かれそうになり、あるものは沈みゆく舟の上で苦しみ、あるものは権力に虐げられ処刑されようとしており、またあるものは疫病、飢え、戦争により親しい友人や家族を失っていた。その時、彼の心の中にとてつもない(compassion)共感と慈悲の心が湧き上がった。

「どうすればああしたものたちを救うことが出来るのだろう。こんなに多くの人が自らの助けと導きを必要としているのにどうして自分のためだけに努力をするのだ。」

だから彼は偉大な誓いを建てた。もし自分が全ての人々を苦しみから解き放つことが出来るのなら、ほんのわずかな時間でも、自らの体が千々に分かれてしまおうとも、何らためらうことはない、と。

それからアバロキテシュバラは、深い共感と慈悲の下に瞑想行についた。長い長い間、瞑想の座に彼はついた。そして遂にアバロキテシュバラは瞑想行を解き、外に出でて見渡してみると、未だ人々はいがみあい、苦しみ続けているのが見えた。アバロキテシュバラは、

「私は全ての時間を瞑想に費やしたのに、いまだ人々は、いがみ合い、苦しみ、憎しみ続け、私は人々の心を自由とし、苦しみから解放出来ていないではないか。。」

と感じた。アバロキテシュバラは徒労を感じ愕然と落ち込み、努力を続けることを、もう諦めようとした。するとその瞬間、彼の体が幾千もの部分に分かれ、彼はその苦しみに叫び声を上げた。偉大な慈悲と共感の心を除いて、彼の幾千もの部分に分かれた彼の体は新たな形となった。彼の分裂した頭は、十一の頭となり、今、彼は宙の全ての方向を見ることが出来るようになった。また彼の体からは、幾千もの腕が伸び、それは宙の全ての方向に届くことが出来るものとなった。

こうしてアバロキテシュバラは、人々の幸福のために、よりよく働くことが出来るようになったのである。アバロキテシュバラの、十一面の顔と幾千の腕を持つその姿は、際限のない慈悲と共感を表現する象徴でもあるのである。

彼にまつわるもう一つの真言(マントラ)がある。それは慈悲と共感を表現するものであり、”オンマニぺメフム”の音である(チベットの六字真言)。”オンマニぺメフム”とは「蓮華の中の宝石」の意を持つ。人は皆、蓮子のさやのようなものである。佛の法を実行することにより蓮華が開花し、輝く目覚めと悟りの宝珠が現出するのである。」」

モバイルバージョンを終了