ときどき漫画の一場面をご紹介致しております。本日は30年以上前の漫画ですが、いまだよく目にする「北斗の拳」からです。 あるご老人(図右側)が一握りの種もみを、命からがら盗賊から守りながら逃げるシーンがございます。
老人は悪党につかまって力により種もみを横取られそうになりますが、「秋になればこの種もみからたくさんの種が取れるから、待って欲しい」と老人は悪党に言いますが、悪党は、「そんなこと知るか、今その種もみをよこせ、今、おれが食う!」と横取りをしようとしているところに、主人公のケンシロウが現れ(図左側)、悪党を粉砕した後の場面。
老人が「今日より明日なんじゃ」と、ケンシロウに言葉を残します。 先の見えなくなった令和の時代には象徴的な場面です。今日より明日か、明日より今日か。
「今日生き残らなければ明日などあるか」あるいは「明日など関係ない」と思われる方もいるかもしれません。若い世代でも、今日より明日、という言葉を聞くとなんだかこそばゆく、理想的偽善的な言葉に聞こえ、斜に構えられるかもしれません。
しかし偽善をも含め理想や目標を失った社会や人は進化を止めます。
ただ目の前の物事に執着し、明日を捨てる。明日なき社会。理想や目標に生きるものをあざけり、冷笑し、強い言葉で誹謗中傷し合い、叩きやすいものを叩き合う。まさしくそれは「北斗の拳」に描かれた世紀末の力の強弱関係だけが支配する弱肉強食のような世界。
ドラマ「半沢直樹」が大ヒットしたのも、そうした力の強弱関係だけが独り歩きして、社会構造を一意的に決めてしまい、真の人間的な正しさや理想の見えにくい社会への嫌気があるのかもしれません 。
力の強弱関係だけが支配する世界、 それは人間の世界ではなく、ケモノの世界です。 ケモノと人とを分けるものは理想であり、理性であり、知性であり、それを礎とした文明ですが、今、その文明の礎となる理性や知性を否定する動きが世界で出てきております。(科学や宗教というすぐには分かり難く、抽象的なものは、その文明の最後に生まれる文明の結晶です。そのため、これらを否定すると文明の果実はなくなります。)
先日ご紹介させて頂いた京都出町柳のおっちゃんも「今日より明日」と明日に種をまき続けた方です。
ケモノは今だけに生き、人は明日に生きます。
果たして今、わたくしどもの社会はケモノの世界でしょうか、人の世界でしょうか。
「日輪、常に満てよ」、今日は曇っていても雨が降っていても、明日は必ず日輪が輝く。今から730年前に種をまいた「人」が犬山にいらっしゃったことを思いますと「日輪山常満寺」は、希望を示す誠に良い寺号、山号と思っております。
合掌 常 範空 m(_ _)m