言葉、スマホ、兵戈

22日に第二回目のアメリカ大統領候補討論会が行われます。前回の討論会は「プロレス」もしくは「エンターテイメント」になってしまい、結果的に両候補の展望を聞くことが出来ずやる意味がなかったとの意見が多く、今回の討論会はきちんと討論が出来ることが期待されています。

討論会は、展望を指導者たちの「言葉」によって聞く場所ですが、この10年程について、「言葉」が、これ程意味を失った時代はないように思います。すなわち「言葉」が「言葉」として機能していません。一見(聞)分かりやすく聞こえても、中身がなかったり、前言がすぐに撤回されたり、話す側も、聞く側も、その場のつじつまのみ合えば、後は深く考えないようになっている感じもしています。朝令暮改なら時間的に言えばまだ良い方かもしれません。

以前、人間が機械の信号情報処理スピードについていけないがために、新聞などのニュースの送り手が、ひたすら文章の分かり易さを短文化(LINE、Twitterなど)に求めたり、「言葉」や文字に比べて、すぐに分かり易い「写真」を使う媒体(facebookよりもInstagramなど)にながれているのではないか と書きました。あまりのスピード重視のため、短い言葉にも関わらす質が伴わず、頻繁に誤報やフェイクニュースやデマと言った「社会問題」が起きるようになっています。

一方で、ニュースや情報の受け手の我々も「分かりにくさ」を許容できなくなっています。だから分かりにくい学術や宗教は外に追いやられてしまうのでしょうか。。

昔は新聞などでは、誤字脱字が見られなかったように思いますが、今は情報スピードと引き換えに、新聞やネットニュースのプロのはずの文章などでさえも、何処かに誤字脱字が見つけられるようになりました。

短くなっているけれど(が故に)、意味がなく、信用が出来なくなっている言葉。「言葉」は、道具ですので、使い手の質があらわれます。「言葉」が正しく使えないのならば、他の「道具」も正しく使えているのかどうか疑問に思えて参ります。「スマホ」という道具を、小学生に渡すかどうか悩む親御さんがいます。「兵戈」を持つかどうか悩む国があります。全てそれらは「道具」ですので、持つか否かは、それらを使う使い手の質によります。「道具」に善悪はありません、如何に使うか使い手の問題です。使いこなせないなら持たない方が良いのかもしれません。

「言葉」は一つの道具ですが、その使い方がおかしい時、その他の「道具」の使われ方や使い手にも疑問を持った方が良いのかもしれません。

追)「分かり易さ」のために文章を短くしないといけないのですが、状況を示す写真ばかり使うことは人の退化を示すようで、あえて未だ長文で抵抗をしています。

合掌 常 範空 m(_ _)m

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