徳川幕府、尾張徳川藩は薩摩島津藩の力をそぐため木曽川の治水工事に薩摩の人々を駆り出し、その作業に当たらせました。人柱という言葉もありますが、実際に生きながらに人柱となった方もおられたと聞きます。
写真の五輪塔は1754年、徳川宗治のあとの宗勝の代に行われた宝暦治水により亡くなられた薩摩藩の人々を供養するための供養塔で、二百六十七回忌のお参りを三重海蔵寺様が行われました。薩摩の家紋に並ぶ紋はどこのものでしょうか。。常満寺にも宝暦三年に作られた無縁仏を供養する供養塔と阿弥陀如来像があり、今まで元号を意識しませんでしだか治水事業で亡くなられた方と何らかの関係があるのではと考えております。今、犬山市から江南市への川沿いの堤防がありますが、その周辺の堤防の外側の地名に「鹿子島」という名も残っています。
現代にも通じることですが、 どのような理由であれ、 人の命を軽んじるもしくは誰かの犠牲を当たり前とするやり方は治世と呼ぶことは出来ません。歴史が語るとおり300年近く経っても、命を直接的にも、間接的に奪う行為には、こうしてその永代に亘る遺恨が残るからです。
犠牲や苦しみを強いた側は忘れても、強いられた側は決して忘れることはない。人命や人の存在を軽んじる発言や行動が、コロナのこの時世に、よく出て参りますが、そのつけや代償は、 どのような理由であれ、犠牲や苦しみを強いたものや関連するものに代々に亘り深々と残っていくものです。
何度死のうとも、また生まれ変わろうとも、永代に亘り解決できない禍根を業として残すことがあるという事。その為に未だ陰ながら供養を続ける代々の家もあります。勝利と思った後には、必ず 敗北が 待っているものです。兎角、よりどころを求めたくなりますが、人も自然の一部である以上、人為的絶対的正義など存在しないように思うのです。
合掌 常満寺 範空
